東京地方裁判所 昭和43年(ワ)5290号 判決 1972年3月07日
原告 甲野一郎
被告 国
右代表者法務大臣 前尾繁三郎
右指定代理人 篠原一幸
<ほか二名>
主文
被告は原告に対し、金五万円及びこれに対する昭和四一年八月二四日以降完済までの年五分の割合による金員の支払をせよ。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用のうち、鑑定に要した分は被告の負担、嘱託及び出張尋問に要した費用中各自に関する分は各自の負担、その余の費用はこれを五分し、その四を原告の負担、その一を被告の各負担とする。
事実
原告は、「被告は原告に対し、金五〇万円及びこれに対する昭和四一年八月二四日以降完済までの年二割の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因として、
一 原告の陰茎亀頭部には、深さ約一ミリメートル、両側端の直線距離約一二ミリメートルの曲玉形の瘢痕と、長さ約四ミリメートルの長円形の瘢痕がある。これらの瘢痕は、元来なかったのであるが、次項以下で述べる被告公務員の過失によって生じたものである。
二 原告は、昭和四一年八月当時府中刑務所において服役していたが、同月二三日、その八日前に発生した歯痛が遂にたえがたい程のものとなり、労役に服することにも支障をきたすようになったので、担当の佐藤正睦看守にこの実状を申告して、歯痛止めの薬品を投与されたい旨依頼し、その際自分はアレルギー体質のピリン系という特異体質であることを申添えた。そのため同看守は、投薬願箋の左上部に原告の申出どおりの注意事項を朱書した上、これを同刑務所医務部に提出した。なお、新入時に原告が右のごとき特異体質である旨申出ておいたので、同刑務所医務部保管の原告についての診療カルテの上部には、このことが朱筆でもって明記されている。
三 同日午後三時頃、原告は伊東明看守部長が持参給与した歯痛止めの薬(グレラン末)を服用した。
四 ところが同日午後六時三〇分頃から、ピリン系特有の症状即ち左手小指の付根や指の関節部の異状が認められるようになったので、原告は、先刻の薬に間違いがあったのではないかと考え、舎房において同夜の夜勤担当の加藤佐十郎看守にこの旨申告して特別診察を申出た。これに対して同看守は、「命に別条なければ明日工場に出役してからにせよ。」と言って取合わず、原告が重ねて依頼すると、「それ以上言うと、診察強要で懲罰にするぞ。」と原告を強圧して、同夜中に原告が診療を受けるのを不能にした。
五 このように、原告は、誤った薬品の投与と適時における早期の診療を拒否された結果、遂に完治不能ともいうべき第一項掲記の各瘢痕を残すことになったため、肉体的欠陥そのものから生ずる精神的苦痛はもちろんのこと、公衆浴場に入る場合や性交の際に強い差恥心を感じるなどの精神的苦痛を蒙った。これを金銭で評価すれば金五〇万円に相当する。
六 よって原告は被告に対し、五〇万円及びこれに対する本件不法行為の翌日たる昭和四一年八月二四日以降完済までの利息制限法所定年二割の割合による利息の支払を求める。
と述べ(た。)証拠≪省略≫
被告指定代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、
一 請求原因第一項の事実中、原告にその主張のような瘢痕があることは認めるが、発生原因は争う。
二 同第二項の事実中、当時原告が府中刑務所で服役していたこと、昭和四一年八月二三日原告から佐藤正睦看守に対し歯痛の申告と鎮痛剤投与の出願があったこと、これらの事実は認めるが、その余の事実は否認する。尤も、同月一九日に原告からやはり歯痛止めの薬の投与願があった除、同看守が報告用紙の備考欄に原告の申出に基き「尚この者はアレルギー症であります」と青インクで記載して原告の指印を押捺させこれを医務部に回付したことや、同日保健課長吉沢功医師が右報告書に基き内科等診療簿の処置欄に「ピリン症」と付記した事実はある。
三 同第三項の事実は認める。但し、同日午後は歯科担当の戸叶正雄医師が不在であり、かねてより同医師から「自分が不在の折りに歯痛の急患者が出た場合は、鎮静剤(グレラン末、市販の家庭常備薬)に限り、一包ないし二包を投与しておくように。」との指示を受けていたので、至急の投与を願出た原告に同剤一包を給与したという事情がある。
四 同第四項の事実中、同日午後七時頃原告から加藤佐十郎看守に対し、「左手小指の付根にジンマシンのような小粒の赤い発疹が数個できたから、特別診察をして下さい。」との願出があったことは認めるが、その余の事実は否認する。同看守は、原告から右の申出を受けて直ちに当直の山崎寅治技官に電話連絡をしたところ、「疼痛的熱感とか発熱等の症状についての訴がない以上、夜間に特別診察をしなければならないほど緊急を要する症状とは思われないので、しばらく様子を見るように」との回答であったので、これを原告に伝え、「経過を見た上で悪いようなら、その時に又診察を申出るように」と言ったのに対し、原告も納得して就寝し、翌朝まで何の申出もなかったのである。
五 同第五項で原告が述べている点は争う。原告の瘢痕がグレラン末に起因した可能性もないではないが、本剤は、日本薬局方名をピラビタールと言い、アミノピリン二分子量とバルビタール一分子量から組成されているピリン系薬剤であるから、ピリン系アレルギー体質者が服用した場合、副作用として生ずることもある発疹や水疱とても一般的には、長期間連用した場合等を除けば、薬の使用中止により薬疹がすみやかに消退するのが通例であり、まして、局部に瘢痕まで生ずることなどは通常考えられず、極めて稀な異常体質に基く例外的事例に属する。又本件の瘢痕は、これによって何等の機能障害をもたらすものではなく、もともと入浴中といえども当該局部を他人に見せることが少ない上、その大きさや深さからしてもさほど他人の注目をあびる程度のものとは言えないから、特別な精神的苦痛を原告に与えているとは言い難い。
と述べ(た。)証拠≪省略≫
理由
昭和四一年八月当時原告が府中刑務所で服役していたこと、同月二三日原告が担当の看守に歯痛止めの薬の投与を願出て、同日午後三時頃そのためのグレラン末剤の給与を受けてこれを服用したこと、同日午後七時頃原告から担当看守に対して「左手小指の付根付近に異状が生じたので特別診察を受けたい。」との願出があったが、同夜中には診察がなされなかったこと、現在原告の陰茎亀頭部に原告主張のごとき瘢痕があること、以上の各事実は当事者間に争いがない。
まず因果関係について判断する。鑑定人藤野倫鑑定の結果によれば、ピリン系の薬剤であるグレラン末剤を服用をした場合に、薬疹又はその続発疹によって潰瘍即ち組織の欠損が生ずる可能性は否定できないとのことである。そして、≪証拠省略≫を総合すれば、右の瘢痕は前示グレラン末剤を服用した結果生じたものであることを認定でき、反証はない。ただ、右鑑定の結果によれば、同薬剤の服用によって前示の部位に瘢痕を残す結果を予測することは一般的には不可能であって、患者のアレルギー性が極めて高度な場合に例外的に生ずるにすぎないことが窺われる。
次に、府中刑務所の医務部職員及び担当看守の過失の有無について検討する。原告は、八月二三日当日自分がピリン系のアレルギー体質である旨担当の佐藤正睦看守に申出たと主張し、その本人尋問の際これに副う供述をしているが、この供述は≪証拠省略≫に対比して信用しがたく、他に右主張に副う証拠はないから、これを採用することはできない。又同日の夜原告が特別診察願をしたのに対し担当看守がこれを取次ごうとせず、原告を強圧して同夜中に受診できなくしたとの点については、≪証拠省略≫によってこのような事実の不存在が認められるばかりでなく、原告が陰部の異状とか夜間における特別診察を必要とする程の症状を訴えたことの主張も立証もないから、この点は格別問題とはならない。ただ、四日前の同月一九日に、原告からやはり歯痛止めの薬の投与願を出されてこれを受付けた右佐藤看守が、原告の申出に基き報告用紙の備考欄に「尚この者はアレルギー症であります。」と記載し、この報告を受けた同刑務所保健課長吉沢功医師もこれに基いて同日内科等診療簿の処置欄に「ピリン症」と付記したことを被告が自陳しているので、この事実からすれば、たとえ答弁の第三項で被告が述べているような医師の不在その他の事情があったにもせよ、二三日における薬剤の投与につきより周到な注意を払うべきであったといわなければならない。加えて、前記鑑定の結果によれば、本件の当時でも、患者にグレラン末剤を投与する際にその者がピリン系のアレルギー体質であるか否かを確認することは医術上一般に要請されていたところであることが認められる。従って、右薬剤の投与について過失があったことは否定できない。
ところで、前記の関係者が公権力の行使に当る国家公務員であることは明かであり、違法性を阻却する事由も認められないので、以上判示したところからすれば、被告は原告に対する賠償責任を免れ得ないと言わなければならない。
そこで、損害額について判断する。≪証拠省略≫によれば、本件の瘢痕が性交時その他の際格別の支障となるものではないことが認められるし、通常他人に見せたり見られたりする部位にあるものでもなく、前記鑑定結果添付の写真によってもそれ自体さほど大きな深い瘢痕とも認め難いので、客観的に見た場合の精神的苦痛はしかく大きくはなく、むしろ僅かなものであると判断される。しかし、原告の主観面におけるそれをあながち無視することはできないところである。その他、本件の傷害が例外的に稀にしか生じないものであること、被告公務員の過失が比較的少なく、そこに酌むべき事情も認められないではないこと、その一方、原告としても二三日当日にも自分が特異体質である旨繰返して申述べ、服用の際ピリン系薬剤であるか否かを確認しておけば、本件のごとき結果を回避できたと考えられること、これらの事情を考慮すれば、原告の精神的苦痛を慰藉するに足る金額としては、これを金五万円とするのが相当である。
よって、原告の請求は、被告に対し金五万円及びこれに対する前示投与の翌日たる昭和四一年八月二四日以降完済までの民法所定年五分の割合による遅延損害金(原告は利息制限法による利息金の支払を求めているが、右のように善解する)の支払を求める限度で正当として認容するが、他を失当として棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 小林啓二)